「山下清」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

天才画家?

裸の大将?「山下清」の散り際とは?この記事では山下清の晩年と最期について解説します。

「山下清」とは?簡単に説明

ドラマ『裸の大将放浪記』は近年新作がないため、彼が画家だと知っていても、きちんと説明できる人は少ないのではないでしょうか。

その代名詞は“ちぎり紙細工による貼り紙”で多くの作品を残しています。

知的障害や言語障害を患っていましたが、風景を脳裏に鮮明に刻むことが可能だったようです。

気ままに全国を放浪、拠点に帰ってきて作品に着手していました。

ドラマによりランニングやおにぎりが代名詞として定着。

しかし実際はベレー帽を好み、食事も肉料理や寿司、天ぷらなどを好んでいたそうです。

「山下清」の晩年

江戸時代に「歌川広重」が手がけた浮世絵『東海道五十三次』の昭和版を自身のライフワークとして取り組みはじめたのは1964年のことでした。

東京の皇居前を皮切りに東海道を西上。

品川宿から始まる宿場町の風景を描いています。

しかし1968年に高血圧症による眼底出血を起こしてしまい、この旅は中止せざるを得ませんでした。

このため『東海道五十三次』は愛知県・名古屋の熱田宿(宮宿)熱田神宮までの42枚で終わった未完成作品になったと思われました。

「山下清」の死に様

1971年7月12日、49才で永眠。

死因は脳出血でした。

元々高血圧症で眼底出血で3年前に『東海道五十三次』の旅を断念。

晩年は病気がちだったとも言われています。

「山下清」の死に様の信憑性

新潟・長岡や大阪・富田林の花火大会を題材として作品が残されているように、彼は花火を好んでいたと言います。

生前は花火大会があると聞くと足繁く通ったそうです。

初夏に亡くなったこともあり、亡くなる直前の言葉も今年の花火大会の行き先を思案するものでした。

また生前「母の眠る土地で静かに眠りたい」と話していたとされ、死後はその要望がかなえられています。

母の眠る新潟県・佐渡島新穂村(現佐渡市)、花火同様に好きだったとされる富士山が見える静岡県・御殿場、そして東京世田谷に分骨されることになりました。

また亡くなった後、アトリエから三重県・桑名から東海道の終点である京都府・三条大橋までの13枚が遺品として見つかっています。

これにより東海道の起点・皇居(日本橋)、終点・三条大橋(三条大橋)と東海道53宿。

計55枚が揃ったことで『東海道五十三次』は完成したと言っていいでしょう。

まとめ

山下清は1971年7月12日に高血圧症からの脳出血で49歳でその生涯を終えています。

晩年はライフワークとして昭和版『東海道五十三次』の製作に取り組みました。

1968年の眼底出血により、旅は中断。

その後再開せず亡くなったため『東海道五十三次』志半ばの未完成で終わるかと思われました。

しかし没後にアトリエから残りの桑名宿から大津宿、終点京都・三条大橋までの13枚が発見。

これにより昭和版『東海道五十三次』は完成し、現在では版画で作品を見ることが可能です。

タイトルとURLをコピーしました