「渡哲也」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

パート1から3まで続いた人気刑事ドラマ「西部警察」の大門団長でおなじみの渡哲也は78歳で亡くなりました。

今回はその死因について詳しく解説していきます。

「渡哲也」とは?簡単に説明

昭和16年に現在の島根県安来市で生まれた渡哲也こと渡瀬道彦(わたせみちひこ)は、俳優として知られる人物で、同じく俳優の渡瀬恒彦は彼の実弟にあたります。

昭和39年に日活へ入社した渡はデビュー後、優秀な日本人俳優に贈られるエランドール賞新人賞や映画のブルーリボン賞などを受賞し、順調に役者の道を歩んでいきます。

昭和46年には石原裕次郎率いる石原プロモーションへ入社した渡は、その後テレビ業界や映画界で幅広く活躍をし始め、「角刈りにサングラス」という出で立ちがトレードマークになっていきます。

平成17年に紫綬褒章を受章した渡でしたが、令和2年8月10日、肺炎により78歳で死去しています。

「渡哲也」の死に様

渡哲也は令和2年8月10日、肺炎により78歳で死去しています。

平成27年に急性心筋梗塞を発症したことにより緊急入院することになった渡は、入院後すぐに手術を受け、成功しています。

退院後には宝酒造「松竹梅」のCM撮影で仕事に復帰しており、このCMでは生前の石原裕次郎氏とのCM初共演が話題となりました。

平成29年には3歳年下の実弟、渡瀬恒彦が胆嚢がんにより72歳で永眠してしまい、多大なるショックを受けた渡はその後もテレビやCMを中心に活動を続けますが、ついに自身も肺炎のため78歳で死去してしまいます。

「渡哲也」の死に様の信憑性

昭和48年に膠原病(こうげんびょう)を患った渡哲也は、胸膜炎を併発したことにより毎月1回の定期健診が必須になります。

その後大きな病にかかることはありませんでしたが、平成3年の定期健診時に直腸がんが見つかってしまい、直腸を25cmほど切除して人工肛門を装着するようになります。

しかしながら、その6年後には早期の大腸がんを罹患したことにより、内視鏡手術を受けることになってしまいます。

その後の5年検診と10年検診ではがんの転移が認められなかったために安心していましたが、今度は急性心筋梗塞に襲われ、再度入院して手術を受け、無事に成功しています。

しかし、退院後も数年おきに肺気腫や呼吸器疾患などを患い、その度に療養生活を送っていた渡でしたが、最終的には肺炎で亡くなっています。

長引く闘病生活では、酸素吸入器を付けて生活を送るなど、生前の闘病生活はけっして楽なものではなかったと言います。

「渡哲也」の小ネタ等

幼い頃から機械をいじるのが好きだった渡哲也は、日本航空の整備士社員の採用試験を受験しますが、国語、数学、物理、化学の4科目の試験はすべて英語で行われたため、全科目不合格となっています。

その一方で、大学時代に習っていた空手は弐段、柔道は初段だった渡のアクション俳優としての素質は、その後の刑事ドラマで見事に開花しています。

まとめ

石原プロモーションの第2代代表取締役社長である渡哲也は、昭和を代表すると言っても過言ではない大変渋い役者でした。

実弟の渡瀬恒彦と共に歩んできたその道程は、現在のテレビ業界にしっかりと引き継がれています。

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