かの「ナポレオン」も尊敬する北方の獅子王「グスタフ2世アドルフ」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「グスタフ2世アドルフ」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「グスタフ2世アドルフ(Gustav II Adolf)」とは?簡単に説明
「グスタフ2世アドルフ」はスウェーデンの国王だった人物です。
国王でありながら、勇猛果敢に戦場を駆けたことから「北方の獅子王」とも称されています。
わずか17歳の若さで王位を継承後、財政、軍制など様々な整備、及び改革を執り行い国力の底上げに注力しました。
また、プロテスタント国家であったスウェーデンは当時、カトリック勢力であったポーランドと戦っていました。
バルト海を巡る戦にて、「グスタフ2世アドルフ」は首と右腕に銃弾を受けて落馬。
甲冑を着ることが不可能になった上、右腕の自由が効かなくなってしまいます。
「グスタフ2世アドルフ」の晩年と最期
1630年、ドイツではプロテスタント勢力とカトリック勢力との間で「三十年戦争」が勃発していました。
「グスタフ2世アドルフ」は同じプロテスタント勢力を助けるためにドイツへと軍を進めます。
1631年の「ブライテンフェルトの戦い」では神聖ローマ帝国とカトリック勢力を相手に、奇抜な戦術を駆使して、わずか7時間で自軍を勝利に導きました。
「ブライテンフェルトの戦い」での勝利は、プロテスタント勢力にとって「三十年戦争」における初勝利であり、同時に「グスタフ2世アドルフ」の名声を一気に高めたのでした。
これを機に、士気の湧いたプロテスタント勢力は一転して連戦連勝を重ねていき、バイエルンにて「アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン」指揮する軍と対峙します。
両軍は幾度かの戦闘を交えますが、戦況は膠着状態に。
それを打破すべく「グスタフ2世アドルフ」は1632年に「リュッツェンの戦い」で決戦に挑みますが、敵の銃弾に撃ち抜かれて戦死します。
享年38歳でした。
スウェーデン軍は「グスタフ2世アドルフ」を失いますが、「リュッツェンの戦い」を制します。
その後、国王亡きスウェーデン軍は苦境に立たされながらも、彼の後に続く者たちの活躍により「三十年戦争」に勝利するのでした。
「グスタフ2世アドルフ」の死に様の信憑性
「リュッツェンの戦い」にて、「グスタフ2世アドルフ」は最前線で指揮を執っていました。
当時、戦場に深い霧が立ち込めていた上に、自身がひどい近視だったこともあり、敵前に突出してしまったところを撃ち抜かれて命を落としました。
敵味方入り乱れる激戦の中、「グスタフ2世アドルフ」の遺体は他の死体に埋もれてしまい、すぐさま戦死を確認することができなかったと云われています。
まとめ
「グスタフ2世アドルフ」は「北方の獅子王」とも呼ばれるスウェーデンの国王です。
プロテスタント勢力とカトリック勢力の間で「三十年戦争」と呼ばれる宗教戦争が起こると、「グスタフ2世アドルフ」は同じプロテスタント勢力を救うために介入を図りました。
戦争では、画期的な戦術を用い、緒戦にてプロテスタント勢力を勝利に導いたことで英雄としての名声を獲得します。
しかし、1632年の「リュッツェンの戦い」にて、敵軍の銃弾を受けたことにより、享年38歳で戦死しました。