大阪を代表するシンガーソングライターの一人だった河島英五の晩年と最期とは?この記事では河島英五の晩年そして散り際に迫ります。
「河島英五」とは?簡単に説明
河島英五は大阪を代表するシンガーソングライターの一人だと言っていいでしょう。
骨太の歌詞に詰まっている感情表現の豊かさは多くの人の共感を得ました。
堅い漢というイメージが先行しますが、70年代初頭に流行った支離滅裂派フォークの歌い手でもありました。
その流れという訳で当時京都発で全国区の人気を誇ったあのねのねのバックバンドを務めており、作詞作曲をした青春旅情はあのねのね+1名義でリリースされ、有名です。
「河島英五」の晩年
精力的にコンサートやライブをこなしてゆくなかで、一風変わったテイストの楽曲「魔法の絵の具」がNHKのみんなのうたにで放送。
また俳優としても中学生の教育映画などに出演。
また愛娘の結婚も決まるなど公私に渡って順風満帆だったと言えるでしょう。
しかし20年以上に渡ってなりを潜めていた病魔に襲われてしまうことになるのでした。
それが2000年の年末のことでした。
「河島英五」の死に様
2000年末から続く体調不良の正体が判明したのは2001年1月27日のことでした。
前日の富山でのコンサートから帰宅後に喀血。
検査を受けた結果は喀血は嘔吐を繰り返したために胃と食堂の接合部が割けるマロリーワイス症候群で予後の良いものでしたが、同時に肝硬変と静脈瘤も見つかってしまいます。
しかしそれでも彼は入院ではなく、歌を歌うことを選び、強引に退院。
歩けない状態ながらもスケジュールをこなしていくのでした。
しかしその臨界点が訪れてしまったのは2001年の4月16日です。
14日の府内でのイベント終了後に帰宅後、喀血。
そのまま朝を迎えるも再度喀血したことで緊急搬送されることになります。
紆余曲折の末に入院することとなったものの、昏睡状態に陥ってしまいます。
しかし夫人の呼びかけに反応して覚醒。
そのごは会話をするほどに回復をみせたものの日付のかわった4月16日に永眠しています。
48歳のことでした。
「河島英五」の死に様の信憑性
C型肝炎に感染したのは1970年代半ばであり、アフリカとアジア圏で多い病気です。
その時期に世界各地を旅したこともあり、旅先で罹患した可能性が高いと言えるでしょう。
漢とくさいキャラクター「酒と泪と男と女」が黄桜のCMソングになり、沢の鶴、白鶴といった灘の日本酒大手酒造のCMソングは歌ったものの本人は肝炎発覚後は飲酒を控えていたと言います。
関西ではMBSラジオで長女の河島あみるが「あみるが語る河島英五」を日曜夕方のラジオ番組内でしばしば思い出話をしており、そこで晩年、最期の様子について改めて知った方も多いのではないでしょうか。
まとめ
河島英五は2001年4月16日の未明に亡くなっています。
48歳没。
死因はC型肝炎が進行しての肝硬変によるものでした。
C型肝炎は1970年代半ばに発覚していることもあり、海外放浪期間中に罹患した可能性が高いと言えます。
最期まで歌手であることを選び、亡くなる前日の奈良でのコンサートのキャンセルを拒み、入院が遅れたのも数時間後の昏睡状態に繋がってしまったのかもしれません。