「ティコ・ブラーエ」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

精細な天体観測により、天文学に大きく貢献を果たした天文学者「ティコ・ブラーエ」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「ティコ・ブラーエ」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe)」とは?簡単に説明

「ティコ・ブラーエ」はデンマーク人の天文学者です。

非常に精度の高い天体観測を行い、後の天文学に多大な影響をもたらしたとされています。

デンマークの貴族の家系に生まれた「ティコ・ブラーエ」は天文学に興味を抱き、独自の宇宙モデルを確立していきます。

やがて、デンマーク王「フレゼリク2世」の後援を受け、ヴェン島にて数十年に渡る天体観測へ心血を注ぐのでした。

「ティコ・ブラーエ」の晩年と最期

晩年に差し掛かると、「ティコ・ブラーエ」を寵していたデンマーク王「フレゼリク2世」が亡くなりました。

先王と違って王位を継いだ新王は「ティコ・ブラーエ」を寵せず、加えて複数の政敵から弾圧を受けます。

そして、ある日、政敵の手引きにより、自宅前で群衆たちが暴動を起こしたことがきっかけで、1597年に「ティコ・ブラーエ」はヴェン島を後にします。

その後は神聖ローマ帝国へと亡命し、皇帝によりプラハの宮廷に招かれるのでした。

宮廷に入った「ティコ・ブラーエ」は皇帝をはじめ、貴族たちからも資金提供を受けるなど厚遇されました。

資金提供の代価として、「ティコ・ブラーエ」は天文学を基にした占いや予言を行っていたとされています。

しかし、1601年10月に「ティコ・ブラーエ」は宴席があった日に体調を崩し、それから数日後に享年54歳で急死しました。

「ティコ・ブラーエ」の死に様の信憑性

「ティコ・ブラーエ」の助手を務めた「ケプラー」によると、宴席中、「ティコ・ブラーエ」は失礼にあたるとしてトイレへ行かずに尿意を我慢していました。

帰宅後、「ティコ・ブラーエ」はわずかにしか排尿ができなくなっていた上、排尿時に激痛を伴っていたため、排尿障害を発症していたようです。

死の直前、「無駄な人生を送ったと思われないことを望む」と悲痛な叫びをあげた「ティコ・ブラーエ」は、未完の天文表「ルドルフ表」「ケプラー」へと託すのでした。

当時、死因は尿路結石とされていましたが、1901年に再び行われた検視の結果、結石が見つからなかったため、尿毒症が死因とする説が有力となりました。

しかし、その後、「ティコ・ブラーエ」の遺体や体毛から高濃度の水銀が検出されたことにより、水銀(毒)を用いた他殺説が挙げられるようになります。

そして、2010年代に再々検視が行われますが、水銀をはじめとする致死量の毒物は検出されず、水銀により死亡したとする説は否定されました。

まとめ

「ティコ・ブラーエ」はデンマーク人の天文学者であり、その高精度な天文観測は偉大な功績として称えられています。

当時のデンマーク王からの後援を受けながら、長きに渡る天体観測に勤しみますが、晩年は政敵からの弾圧を受け、神聖ローマ帝国へと逃れることになります。

神聖ローマ帝国の下で厚遇を受ける「ティコ・ブラーエ」ですが、1601年10月に54歳で急死しました。

死因は当初、尿路結石とされていましたが、その後の検視の結果、尿毒症とする説が有力とされています。

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