この記事では、「力道山」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「力道山(りきどうざん)」とは?簡単に説明
「力道山」は「日本プロレス界の父」とも称されるプロレスラーです。
日本統治下の朝鮮で生まれた後、力士時代を経てからプロレスラーへと転向、「日本プロレス」を設立しました。
日本プロレスにおける礎を築き上げ、最大の功労者でもある「力道山」の下からは、彼の死後に日本プロレスをけん引していく「ジャイアント馬場」や「アントニオ猪木」などが輩出されます。
「力道山」の晩年と最期
1963年12月8日に赤坂のナイトクラブで暴力団傘下組織の構成員「村田勝志」と口論になった末に登山ナイフで腹部を刺されます。
このとき、「力道山」は自ら売った喧嘩ということで警察沙汰にはせず、そのまま病院へ入院しました。
一旦、手術は成功するも体調は再び悪化し、同年12月15日に化膿性腹膜炎により死去します。
享年39歳(諸説あり)でした。
「力道山」の死に様の信憑性
当時、酩酊状態の「力道山」が女性と話していたところを「村田勝志」が通りかかりました。
「力道山」は足を踏まれたと「村田」の襟首を掴みますが、「村田」は踏んだ覚えはないと反論します。
口論の末、「村田」が懐に手をやったので、凶器を取り出すと察した「力道山」は和解を提案しますが、「村田」はこれを拒否しました。
和解が望めないと思った「力道山」は「村田」の顎を突きとばし、馬乗りになって激しく殴打します。
そして、殺されると思った「村田」はナイフを取り出し、「力道山」の左下腹部を刺したと取材で記録されています。
一旦は応急手当を受けて帰宅しますが、翌日に症状が悪化し入院、手術を受けました。
そして、腸閉塞により再手術を受けた数時間後に死に至ったとされています。
また、死因は化膿性腹膜炎とされていますが、一説には療養中、厳しい食事制限の最中、空腹に耐えられなかった「力道山」は寿司や酒を付き人に買わせて、これを食しました。
そして、完治しきっていない患部に生ものやアルコールが障って、病態が急変、急死に至ったとも言われていますが、確証はないようです。
まとめ
「力道山」は日本プロレスの基盤を築き上げた功績から「日本プロレス界の父」とも呼ばれているプロレスラーです。
1963年12月8日に暴力団組員と口論になった末に左下腹部をナイフで刺され、入院した病院で化膿性腹膜炎により39歳(諸説あり)で息を引き取りました。