天子摂関御影に遺されたその姿があまりにも若い事で知られているのが鎌倉時代を駆け抜けた「四条天皇」です。
あまりに短い生涯とその死に際を解説します。
「四条天皇」とは?簡単に説明
後堀河天皇と中宮・九条?子の間に生まれた第一皇子が「四条天皇」です。
1231年3月17日に一条室町邸でこの世に生を受けると翌年の10月4日父の譲位によりわずか2歳で践祚、即位する事になりました。
平安時代末期からの院政ですが、後堀河天皇も上皇として手腕を奮っています。
しかし父・後堀河上皇が2年後に23歳の若さで亡くなった為、外祖父の九条道家とその舅の西園寺公経が政務を担当。
10歳で元服、その年の末には九条彦子を女御にしたところで大事件が起こるのでした。
「四条天皇」の死に様
1241年12月13日に事実上政務していた九条道家の孫娘である九条彦子を女御にしました。
しかしその日から一ヶ月も経たない翌1242年1月9日にあっさりと崩御してしまいます。
宝算12。
当然ながら皇子女はいません。
「四条天皇」の死に様の信憑性
鎌倉時代後期に書かれた『五代帝王物語』は父である後堀河天皇から五代後の亀山天皇までの歴史物語です。
これによれば「四条天皇」は御所の廊下に滑石を撒いて、自分の近習や女房が悪戯にかけようとしていました。
しかし誤って自らが踏んで転倒してしまい、それが直接の原因となって死亡したとされています。
同じく鎌倉時代後期の歴史書である『百錬抄』によれば転倒したのは亡くなる3日前の事で相当な急逝だったのは間違いありません。
自分の縁戚かつ支援者である九条道家の孫娘を娶った直後だっただけに、この崩御はまさに青天の霹靂と言っていい事案でしょう。
これだけの急死のため、暗殺も疑われるところですが当時の社会ではもっぱら呪い・祟りとして噂される事になりました。
『増鏡』の4巻三神山では後鳥羽上皇の怨霊、『門葉記』によれば亡くなって早々に慈円の祟りだと巷では噂になっていたようです。
鎌倉時代に噂された死亡理由「後鳥羽上皇の怨霊」とは?
承久の乱の戦後処理として二代目執権北条義時はは後鳥羽上皇を隠岐、土御門上皇を土佐、順徳上皇を佐渡へ配流にしました。
四条天皇の外祖父である九条道家は後鳥羽上皇を京へ戻すために尽力するもそれは北条家により阻まれてしまいます。
1239年に後鳥羽上皇は崩御しましたが、三浦義村や北条時房が相次いで亡くなった事で怨霊化したと当時噂になっていたようです。
四条天皇は突然死かつ奇妙な亡くなり方をした事から怨霊、祟り説が当時社会に出回ったのでしょう。
まとめ
「四条天皇」は少年らしく、年齢相応に悪戯を仕掛けているうちに自爆。
死因はハッキリしていませんが頭をうって亡くなったと想像されるため脳挫傷とも言われています。
また1月9日に倒れてから亡くなるまではわずか三日間の出来事でした。
このためこの時代ポピュラーであった呪い・祟り、後鳥羽上皇の怨霊に取りつかれて亡くなったと巷では噂になっていたようです。