江戸時代マニアなら知ってて当然!?
この記事では、「中仙道」と「中山道」の違いを分かりやすく説明していきます。
「中仙道」とは?
そのはじまりは織田信長の六角義賢・義治父子征伐における街道整理によるものだと言えるでしょう。
醒井宿から鳥居本宿間のルートを飛鳥時代から続く東山道のそれから変更しました。
「中仙道」の多くの宿場町は東山道時代に出来上がっており、本格的な街道整備が行われたのは関ヶ原の合戦後の1601年からです。
足かけ7年に渡りいわゆる五街道は整備されていきました。
基本的には江戸時代前期は「中仙道」として使われていた事が幾つかの文献で残されています。
「中山道」とは?
本格的に「中山道」が幕府公式の用語になったのは1716年の事です。
それまでの約120年近くは幕府内でも「中仙道」表記が当たり前だったとされます。
老中が街道奉行に命じたとの事でしたが、裏にいるのは「新井白石」でした。
筆頭老中の土屋政直は当人を快く思っていなかったそうですが、徳川家宣・家継のもと権勢を奮っていた事で有名。
実際に考証で郡名変更を行っていた事もあり、白石が関与したとの見方が有力です。
以降公式には「中山道」が使われていく事になりました。
「中仙道」と「中山道」の違い
「中仙道」と「中山道」の違いを、分かりやすく解説します。
基本的には江戸時代の前期、少なくとも徳川家継あたりの御時世までは「中仙道」の表記だったとされます。
1716年4月に当時いた5人の老中のうちの1人が街道奉行に命じて「中山道」の表記に変更させました。
五畿七道のうちの東山道、山陰道、山陽道の3つが山と書いて“セン”と呼称しているからが理由です。
また織田信長がルート変更を行いましたが、東山道の内の中筋の意味合いを持つ事から「中山道」と記載するのが正当だとした意見によるものです。
当時の老中首座の土屋政直の意見ではなく当時権勢を誇った「新井白石」による考証説が有力です。
まとめ
「中仙道」は織田信長が六角父子征伐に作った東山道の改訂版だと言っていいでしょう。
その後1601年に整備が行われ五畿七道として扱われますが、表記は「中仙道」でした。
潮流が変わったのは1716年4月に老中から街道奉行に命じた名称変更です。
他の街道では山が“セン”と呼ばれていた事や東山道の内の街道である事から「中山道」表記にするお触れが出されました。
その後は公式には「中山道」と呼ばれ、街道を利用する一般人の間で「中仙道」の名称が残ったと言っていいでしょう。